現実を変える行為としての創造

創造は血みどろの苦悩の中で生まれてきます。現実との真剣な戦い無くして新しい創造はありえません。

必要とするものを造りだしたり、必要とするものを見つけ出そうとすることは現実との激しい葛藤の中で、見えなかった事実、実態 それを支えている環境や社会を掴み取らねばなりません。人間が現実の中でその知識や自己のありとあらん限りの力をふりしぼり、現実を変革しようと必死の戦いをするとき、燃やしたエネルギーの分だけ自己自身が変化をおこします、この変化した自己が再び現実に向かうとき現実はわずかながら変化して見えてきます(現実が変化したと言ってもいいでしょう)。なんどもなんどもこのような過程を繰り返し、自分自身を変化させ、現実を変えていく不断の行為が新しい現実を創りだす創造です。このように対象とか現実は始め自己の外側にありながらも、それに働きかけることによって実感し、分析し、総合し 何とか理解しようと努めます。この過程で「如何して」、「何故」という問いかけ無しには理解できません。その意味では理解することは生きることだと言ってもいいでしょう。このように対象や現実と深く関わることによって緊張関係を自己の中に創り上げていきます。自己自身の変化はこのような過程を不断に繰り返していくことからおこります。

 

現実は一歩一歩捉まえていくしかない。

残念ながら私たち人間には現実の総体をあるがままに把握することはできません。この無限の相をもつ現実の内、貴方に面してる現実の相が貴方の対象です。私達が見ていると思っている現実は<見ている人の現実>でしかなく私達が把握しようとしている現実の一部でしかありません。その意味では現実は見ている本人の現実です。これは私たち人間が言葉で考える以外に方法をもたない(言い換えれば言葉で置き換えた現実しか対象化できない)以上どうにもなりません。一般的に対象を見る時、人間はその人の持っている知識でしか見ることは出来ないわけですから、対象は知識に映る訳です。この知識は既にそれを見ている人の既得しているものですから、何ら新しい発見はない訳です。

 

では人間は現実が捉えられないといって諦めているのでしょうか? いやむしろ捉えることができない故に捉えようとしているように見えます、より一層現実そのものに近づき掴み取ろうと必死になっているように思われます。無限の相を持つ現実を有限な人間が捉えることは不可能なことでしょうか? 確かに私たちの学んできた論理(Logos=ユーロッパ形而上学)では可能なことのようには思えません。

 

 

このことを西田はマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』を読んで
「従来のすべての唯物論の主要な欠陥は、対象、現実、感性がただ客体または直観の形式のもとでのみ捉えられ、感性的な人間的活動、実践としては捉えられず、主体的に捉えられていないことである。」といっています。
 「対象Gegenstand」つまり「事物」は、西田哲学では客体的な事物ではなく、人間の存在のあり方、五官を通して現れる自らの感覚の世界であり。実践なのです。ところがこれまでの唯物論では、それを自分の外部に自分と対立して立っている客観的事物としてしか捉えることが出来ていないのです。それを自己自身の実践として状態性において主体的に捉え返さなければならないといっているのです。これはヘーゲル的な言い方をすれば他在にあって自己の許にあるということです。たしかに客体としては身体の外部にあるわけですが、それは自己の感覚の統合であるという意味では、主体の実践でもあるわけです。また仏教的な言い方をすれば他力本願といってもいいでしょう。

 これは身体の外部にある事物が、身体の外部でありながらも自己の感覚の統合であり、実践としての自己自身でもあるということです。それで「交渉的存在」である事物が人間学を構成することになるのです。つまり環境としての事物を、三木は、人間に包摂して捉えている、人間の定在であると解釈をしていると受け止めるべきだと私には思われます。

三木清は『パスカルにおける人間の研究』で、本質論じゃなくて、存在論というべきか、そういう人間論が展開されているのに注目しています。つまり状態性において人間を捉えているのです。「人間は考える葦である」というパスカルの言葉は有名ですね。人間は宇宙の無限を知ってしまいました。それに比して人間存在は葦のようにか弱い悲惨な存在に過ぎないのです。

この「悲惨」というのはひとつの「状態性」です。このちっぽけでほんの刹那の命に過ぎない人間を無限の大きさと時間をもつ宇宙が包んでいるわけです。人間を殺すのに雨の一しずくで充分だ。だが人間は宇宙の強大さや人間のちっぽけさ、「悲惨」を知っている。知っていることにおいて、宇宙を包んでいる。それを知らない宇宙よりも「偉大」だというわけです。人間は「悲惨」であり「偉大」である。その間を揺れ動く「動性」だと状態性で規定していきます。これらは本質ではないわけです。おそらく三木は状態性を西田哲学の主客未分な純粋経験で捉えていたと思われます。

人間存在は宇宙の大きさや時間の無限さから比べれば瞬時の砂粒でしかない、しかしこの砂粒は宇宙より巨大で永遠である。

 

目覚めて仏陀になるとダルマ(法)と一体化します。宇宙は法の現われなんですね。すべての生きとし生けるものは、法の現われです。ということは仏陀の現われでもあるわけです。それで一切衆生悉有仏性(一切の生きとし生けるものはことごとく仏であるという本性をもっている)ということです。この仏性は実は「諸法無我」ということです。つまりもろもろの物は法の現れであり、それ自体で存在する自性はないということです。それで、存在は結局その刹那、刹那の自然的社会的連関によって、断続的に生じている事の連続だと言うことになります。今、この刹那、刹那に精一杯命を輝かして燃え生きるというのが、事的人間の生き方です。物としての身体的な自己への拘りなどを弾き飛ばして、過去や未来を「永遠の今」に止揚して生きるわけです。

また事的世界観は、主観・客観認識図式を超克していることになっていますから、必ずしも身体的な自己に拘束されません。空海は太平洋を見て空と海を自己として認識したわけです。その意味では自己をあらゆる存在に見出せるのです。塵さえも御仏の慈悲に輝きますし、宇宙全体が自己(マハートマン)だということもできます。そして御仏というのも本当の自己のことですから、宇宙は極大化した自己です。かくして仏教はヒューマニズムの貫徹ということができます。

 

 

生きる

私達が生きている現代社会は資本主義に対して人間復帰を唱えたマルクス主義がその敗北を認めた時代です。今日においてマルクス主義の3本の柱のうち、キリスト教、ドイツ哲学(ヨーロッパ形而上学)、フランス社会主義はいずれも崩壊し、私達に生きる意味を与える事ができません。人間の欲望を基盤にした物質文明は消費文化を生み出し、資本は人間の物質的欲望という媒体をとうして進歩主義という名のもとにとほうもない化け物になり今までのありとあらゆる価値に代わる宗教となっています。

これはキリスト教とは何なのか?神とは?という根源的な問題、ヘーゲルに代表されるヨーロッパ形而上学は今日何らかの意味を持ちえるのか? 産業革命からの社会主義運動は今日的意味を持ちえるのか? という原則的な疑問に答えなければなりません。

 

2つの世界大戦、マルクス主義の敗北という全世界を襲った大火の跡に、我々一人一人の人間が焼け跡のイエスとなって現代世界を作っていかねばならないのが現代です。

神という価値が死に、それを支えた神学が死に、哲学という西洋形而上学が死に、キリスト教という宗教が死に、社会主義が崩壊し、あらゆるものが死に絶えた跡のこの世界で私は何を生きていくのか、どんな価値を創り出して行くのかが問われているのです。

 

ニーチェはプラトン/キリスト教が創ってきた世界(存在と人間性は永遠である)に対してその欺瞞性を暴露しました、ハイデッガーはそれをヨーロッパ形而上学の崩壊と考え:この形而上学は神の存在と魂の不死の証明に明け暮れてきた、つまり存在の永遠性と同時に人間の永遠性の確信を獲得することが形而上学の課題であった、と言っています。

デカルトやスピノザ、ライプニッチ、パスカルにおいてすら方法やアプローチの違いがあっても、結局は神の存在と魂の不死を証明することに帰結しています。カントは神が存在するかどうか、魂が不死であるか、という問題は理論的な問題としては解決できず実践的な問題としましたがハイデッガーと同じように理論的に否定した神の存在を実践的には肯定するという矛盾を生きざるを得ませんでした。

ヘーゲルに於いてすらも彼の弁証法は弁神論であり、人間精神の不滅性の証明という側面は隠せていません。

ニーチェはこのようなヨーロッパ形而上学がイカサマであることを暴露し、ヘーゲルの理性主義“理性が不死不滅のものであり、それによって歴史は動いていく”にも生身の生きる人間の側から鋭くメスを入れています。

 

資本から疎外されていくプロレタリアは自己の開放を実現する階級闘争に人間性を復活することを夢みた訳ですが、そこで言われている人間性とは一体何なのでしょう、スターリンに象徴されるシベリア流刑は私達人間と言う存在について根源的な問題を投げかけています。

 

一方、キルケゴールに代表される実存主義者はヘーゲルの理性の体系(客観的存在)に対して人間の自己存在に目を向けました、ハイデッガーは人間が有限であり、死するものであることを受け入れたところから出発しています。フランスの実存主義者たちは自己が政治的存在であり、

政治にエンゲイジ(積極的に参加)する生き方を選びました。

これを受け継いだ構造主義者たちは言語学のほうから人間の思考を捉え直そうとしています。

 

石炭という無機物を人間が使うようになってから、生物の体系が壊れ始めました

アングロ−サクソン文化(新教徒文化)

 

言語のあり方が人間のあり方であり、言語の獲得において世界の獲得が始まる。

 

 

やすい:ええ、ヘーゲルでは、事物は意識ではないもののように現れますが、実は、事物を認識するということは、対象を意識で述語づけることなのです。つまり対象が様々な意識の統合であったことが分かって、意識の他者であることを止めたとき、事物は意識に還元されていますから、意識の自己疎外は克服され、自己の下に還帰しているわけです。これがヘーゲルの自己疎外論です。

佐々木:それに対してフォイエルバッハはどのように批判したのですか。

やすい:自然や身体の立場を対置するわけです。ヘーゲルだと自然や身体は意識が自己を自己ではない姿にして、つまり自己の外に対象化して捉えたものだということで、意識の自己疎外だったわけですが、では意識というものはどうして生じるのか、それは自然や身体の活動ではないのか、ヘーゲルでは神である絶対精神の自己展開として自然や歴史、国家が捉えられます。そして全ては絶対精神に還帰するわけです。しかしこの絶対精神なるものは一体どこから生じたのか、自然や身体を基礎にして展開される人類の営みの疎外された姿ではないのかというわけです。神は人間の様々な能力を全て集めたもので、神として外化されて崇拝されているものは、実は人間の類的本質なのだということです。それでフォイエルバッハは神を人間の類的本質として、疎外されていない形で人間に取り戻そうとしたのです。

佐々木:マルクスの「四つの疎外」というのは、それを労働の疎外として具体的に経済活動に適用したものですね。

やすい:『経済学・哲学手稿』の「疎外された労働」という題のつけられている断片で出てきます。「@生産物からの疎外 A労働からの疎外 B類的本質からの疎外 C人間からの疎外」です。
〔1〕生産物からの疎外−人間は自分たちが生み出した生産物が,自分たちのものにならないで,自分たちから独立し,自分たちに敵対して自分たちを苦しめる「生産物からの疎外」に陥っています。この生産物には広い意味では文明もふくまれます。人間が生み出した文明は人間から自立し、一人歩きして、人間の手におえないものになり、人間に対立して人間を苦しめています。
〔2〕労働からの疎外−「生産物からの疎外」が起こるのは,労働が自由な活動ではなく,強制された苦役として無理やりやらされる「労働からの疎外」に陥っているからです。
〔3〕類的本質からの疎外−「労働からの疎外」が起こるのは,「類的本質からの疎外」によるのです。つまり人間という類は労働することを本質的な特長にしています。労働によって自己の能力を発揮し,自己実現できるのです。労働によってさらに人間生活を豊かにし,自然をそれに相応しく作り変えて人間環境として素晴らしいものにするのです。ところがこの活動が,実際には苦役であり,衣食住などの消費生活の手段としてしか捉えることができません。本来は目的である筈の自己実現活動が自己喪失活動としてなされており,実際の目的である生活手段を獲得する為の手段でしかないのです。これが「類的本質からの疎外」という意味なのです。これは〔1〕〔2〕の帰結であると同時にその原因でもあるのです。
〔4〕人間(他人)からの疎外―もし人間同士が互いを共同で働き,共同で消費する身内と見なすことができていたら,「類的本質からの疎外」も起こらなかったでしょう。自分が作った物が人々の欲求を充足することに自己実現を感じ,生きがいを感じられる筈です。しかし現実は,労働を通して各人が作るものは分業社会では,見ず知らずの他人の消費するものです。自分も他人の作った物を手に入れるために,自分が作った物を提供しています。ところが両者は互いにできるだけ少ない労働で,他人のできるだけ多くの労働の成果を支配しようとしていますから,相互支配であり,対立的な関係にあるのです。労働自体が他人を支配する為に他人に支配される関係になってしまい,類的な共同として実感できないのです。この相互支配,敵対的な人間関係が「人間からの疎外」です。この原因は生産

皇国心(すめらみくに ごころ)の漢心(からごころ)

。「雄々しき心」は「荒益男振(ますらをぶり)」つまりおおらかで男性的な歌風に現れているのです。それに対して『古今和歌集』『新古今和歌集』は、優雅で技巧的であり、愚かで未練がましい女々しい女性的な歌風なので、これを「手弱女振(たをやめぶり)」と呼んで退けています。

 

現代の管理社会に中で人々は理性的な判断力をなくし、非主体的に流行の波に身を任せ、ステロタイプ化された感性を自分らしさと取り違えているようです。次々に新しい欲望とそれを満たす商品が生み出されていくのです。自分の好みに合わせて商品を選んでいるつもりでいるのですが、実はその好み自体が商品供給によって生み出されたものなのです。

 非主体的に高度資本主義管理体制に組み込まれて、好みまで押しつけられていると分かったからといって、この体制を破壊することも、逃げ出すこともできません。この体制の境界に見えるのは砂漠であり、精神病棟でしかないのです。このシステムはそれ自体巨大なリヴァイアサンですから、個々人の思いと断絶したところで動いています。

 でもその事を承知の上でなら、開き直って我々は現代社会の中で、限定的ではあっても、自由な自己表現や自己実現を試みる事はできるのです。自分の好みを氾濫する商品の渦から、選び取ることができるのです。それは確かに商品生産体系によって生み出されたものでしかなでしょう。でもその体系自体が矛盾した対立的諸要素の統合でしかない面を持っていますから、我々の選択自体がシステムを稼働させ、変形させ、方向づける性格を持っているのです